
夜道にジュラの赤い目が光っていた。ジュラは夜行性なので夜目がよく効く。全長2メートル、高さ1.5メートルほどの甲虫であり、この世界に広く分布している。木の蜜を食べる温厚な甲虫で、頭もよく人間によくなついた。食用には向かないが、人々はジュラを育てて運搬や畑仕事などに利用する。メスは卵を数個産むだけだが、寿命が長く、死んだ後に殻を防具や建材などにも使えるので、ジュラは人間の好いパートナーと言えるだろう。
だが、この一匹のジュラが引いている木の虫車の中は絶望と死の気配で満ちていた。
アイリスは捕まった時に武器を隠し持っておかなかったことを後悔した。そうすれば相手のスキをついて脱出することもできたかもしれない。そうすればこの馬車の中にいる十人ほどのイグニス人を助けられたかもしれない。
「何かないかな……」
アイリスは足かせをつけられ、手を縛られていたが車内はある程度自由に動けた。何か武器になりそうなものはないか探す。
「おねぇちゃん、ぼくたちどうなるの……?」
アイリスの後から囚われたイグニス人の少年が訊ねた。角だけのアイリスに比べて犬のように毛深い顔をしている。アイリスは少しかわいい……と思った。
「大丈夫、何とかしてみるからね……」
アイリスはひそひそ声でそういうと少年の頭をなでた。
しかし、さすがに奴隷を運ぶ車の中に使えそうな道具は無かった。飲み水の入った桶と、排せつ用の甕が置かれているだけで、他には何もない。
アイリスは立ち上がって後ろの扉を見る。監視用のスリットがあるが、その向こうには誰もいないようだった。つまり敵がいるのは前だけだ。
アイリスは子供たちを前の方に集めて、これからやることを言い含めた。そして飲み水用の桶を扉に投げつける。
鈍い音が大きく響いた。おかしいと思ったのだろう、奴隷商の男はジュラを停めて、後ろに回ってきた。
「お前たち静かにしないと、また鞭をくれる……」
扉を開けてそう言いかけた瞬間にアイリスは排せつ用の甕を奴隷商に向かって、両足でけりだした。
甕の割れる音と、少なからず入っていた排せつ物の匂いが広がる。奴隷商は頭から汚わいを被り、悲鳴を上げた。アイリスは構わず飛び出して手枷の鎖で奴隷商の首を締め上げる。
「私たちを解放して、そうしたら殺さない」
「あ、ぐ……む……無理だ……」
奴隷商は目を向いて苦しそうに言った。
「無理? なんで!?」
その習慣アイリスの首にひたりと冷たいものが当たった。
「そりゃあ、奴隷商がひとりで奴隷を運ばないって話だよイグニスの嬢ちゃん」
トラベラーズハットに革鎧、マントを付けた奴隷商の仲間らしい男がアイリスの首に剣を当てていた。
「さ、脱獄ごっこは終わりだ。車に戻れ。これから町に着くまで水は無し、用を足すのは床にしてくれ。自業自得だからしょうがないよな?」
男はゆっくりと剣を引く。冷やりとした感触と共にアイリスの首の皮が少しだけ切れ、血が滲んだ。次は斬るという意思表示だろう。アイリスはのろのろと立ち上がると、車内に向かおうとした。
その時
ヒュッ、と風を切る音がしたと思うと奴隷商の男が顔色を変えずに倒れた。
「ち、仲間か!」
用心棒が剣を構えて周囲を見回す。それでもさすがに冷静だった。ゆっくりとかがんで奴隷商の体を確認する。後頭部に大きめのハリのようなものが刺さっている。
「スティンガーか。即死だな……」
スティンガーは森に住む夜行性の昆虫。それもハリを飛ばして相手を攻撃する獰猛な肉食昆虫の仲間を注す。それに襲われた、と用心棒は判断した。
相手は虫だから交渉も効かない。命乞いも無駄だ。用心棒は唯一残った選択肢を選んだ。
「そら、出ていけ!」
ゆっくりと下がって車の扉をあけ放ち、アイリスと残った子供を解放した。子供を囮にして逃げのびるという算段だった。
「これでお前さんたちは自由だ。俺はここで失礼させてもらうぜ……」
用心棒は身を低くしてゆっくりと繁みの中に逃げようとする。
だが、次の風切り音で動かなくなったのは用心棒だった。そのまま地面に倒れ込んで動かなくなる。
アイリスは一瞬解放された喜びを感じたが、それも用心棒が死ぬまでだった。次は私たちだ。そう考えたアイリスは剣を振り回し、子供たちに声をかけた。
「車の中に戻って! しばらくはそっちが安全だから! なんかわからないけど、来なさい! 私が相手をするから!」
ブンブンっと剣を両手で振り回し、八方に気配を探る。だが次の瞬間、剣が動かなくなった。
「えっ!?」
アイリスがゆっくりと後ろを振り向くと。黒いオオカミのような顔をした男が剣を指でつまんで押さえていた。なんという力か、剣はピクリとも動かせない。
「あ、あなたは……?」
「角……君も我々の仲間か。安心しろスティンガーはいない。あれは俺が放った骨矢だ」
「……骨矢?」
「動物の骨を干して削って細いダガーにしたものだ。一見するとスティンガーのとげに見えるから、夜襲によく使う」
アイリスが力を抜くと男も剣から指を離した。
「俺はアクィラ。見ての通りイグニスの仲間だ。俺の弟が奴隷商にさらわれて追っていたんだが、君が車を止めてくれたおかげで助け出すことができた。
アクィラが車の方を見ると、さっきアイリスが頭をなでた少年が走って彼の足に捉まった。嬉しそうに泣いている。
「そう……ですか……よかった……」
アイリスは倒れた。
目が覚めると、アイリスは車の中にいた。手足の枷は無く、車は再び動き出していた。安心したのだろう、周りの子供たちもスヤスヤと寝ている。
のぞき窓から前を見ると、アクィラが御者としてジュラを操っていた。長身で手足が長いアクィラに御者は妙に似合っている、とアイリスは思った。
「あの……ありがとうございます」
アイリスが礼を言うと、アクィラは自分の後ろにある扉の掛け金を外した。アイリスを扉を開けてアクィラの隣に座った。
「この街道を逆に戻って、渓谷の方に降りれば俺たちの隠し砦がある。そこでお前も保護してもらうといい」
「あの……わたし……アイリスといいます。その……イグニスの王女の娘なんです」
アクィラは声こそ出さなかったが、驚いたようで少し目を細めた。
アイリスは疲れもあって、今までの自分の境遇をすべて話した。二つの種族から逃げた両親が兄と自分を育てたこと。二人とも政敵によって追手がかかり、離れ離れに逃げたこと。そして自分だけが谷に落ちて流されたこと。それからしばらくは山の中で暮らしていたが、ついに人間に捕まり、奴隷商に売られてしまったこと。
「人間どもはお前をただのイグニスだと思ったわけだ。安く売られたな」
アクィラは「ははは」と少し笑った。アイリスはそれを見て久しぶりに笑顔になった。
「でも、おかげで助かりました。アクィラさん」
「アクィラでいい。しかし、その角を見た時にまさかと思ったが王女の娘とはな……」
「すぐわかったんですか?」
「多分、お前胸に赤いあざがあるだろう?」
「あ、はい」
アイリスは少し恥ずかしげに胸のあざがあるところを抑えた。倒れている間に見られたのだろうか。
「それを絶対砦のイグニスに見せないようにしろ。見られたらすぐに前王女の娘だとバレるぞ。そうなれば本国に送られて死刑だろう」
「死……お母さん一体何を?」
「戦争中に敵前逃亡。しかも敵国の王子と通じてたら、イグニスでは裏切り者だ。一族皆殺しになるだろう」
「でも、わたし、もう行くところが……」
アクィラは無言でジュラの手綱を握ったまま少し考え込んでいた。そして軽く頷くと首から下げていた飾りを外して、アイリスに渡した。
「……これは?」
「あの山が見えるか?」
アイリスはアクィラが指さした方を見る。闇の中により黒い部分がある。そこに山があった。我々人間では見ることはできないが、イグニスの血を引いたアイリスには見ることができた。アイリスが頷くとアクィラは続けた。
「あの山の頂上近くに少し開けたところがある。そこ俺の名前を言え」
「そこに何かあるの?」
「俺の剣の師匠が隠遁している。クフェ族のリルフォという方だ。その飾りを見せればお前を匿ってくれるはずだ。そこでしばらく暮らせ。俺の準備ができたら迎えに行く」
「ありがとうございます……でもなんで?」
「お前に渡した飾りは母の形見だ。うちの一族に伝わるもので、イグニスの王に忠誠を誓った証でもある」
「え、じゃあ……?」
「お前の御父上、つまり先代の王女がいなくなり、女王は崩御した。その後国を支配しているのは当時の宰相グレクリオだ」
「グレクリオ……」
アイリスは噛みしめるようにその名を唱えた。
「いいか、奴を信用するな。彼女は自分の支配の及ばぬ部下をみんな放逐し、イグニスを自分に都合のいい国に変えた」
アクィラは悔しそうに歯を食いしばった。
「俺の父は冤罪で処刑され……母と俺は辺境に飛ばされた」
「ごめん……わたしの母のせいだ……」
「お前のせいではない……王女のせいでもない。グレクリオは女王を暗殺した。俺は両親のためにも奴を討つ。だから、もう一度、お前が国を取り戻す手伝いをしたい」
「……わかった」
アクィラはジュラを止め、アイリスは奴隷商が持っていた食料と水筒を持つと車を飛び降りた。元気はすっかり戻っていた。
「ありがとうアクィラ。わたし待ってるから」
「ああ、必ず会おう」
アクィラは笑顔でそういうと手綱を鳴らして車を再び動かした。
アイリスは遠ざかっていく虫車をしばらく見送ると、教えられた山の方を向き、走り出した。そしてすぐ夜の森の中に入り、姿は見えなくなった。
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